2021年1月27日水曜日

鈴木民芸のこと.手仕事専科Vol001

手仕事専科は、下野手仕事会の会員の方々のご協力から、スタートしました。
手仕事専科のポリシーに「和美との生活」を提唱しています。それは、下野手仕事会の顧問で、栃木県立博物館の学芸部長だった尾島先生の影響によります。尾島先生のお話は幾度となく拝聴しました。決まって、庶民の方々にたいして「清く貧しく美しく生きた人々」の言葉が付いてきました。知る人ぞ知る民俗学者です。天皇陛下を始め皇太子や皇族の方が来られ、伝統工芸品や民芸品の実演の際には決まって、知事と一緒に尾島先生の御進講となります。

私が、30代初めの時でしたから、手仕事会の職人さんたちは、既に50代、60代、会長さんに至っては、70代ですから、ホテルの企画担当の私は、雛っこ同然です。正面切って太刀打ちできる器量もありませんでしたが、尾島先生の一言ですべて交渉事が終わりました。私は、先生の仰せの通りに行動するだけでした。
当時の若衆の職人さん達に後に会長となられた三代目大畑耕雲日下田藍染工房の日下田正さん、小砂焼藤田製陶所の藤田眞一さんが居られました。今市の日光轆轤挽きの鈴木正雪さんも同じ若衆でした。
その鈴木さんは、一昨年の9月に廃業しました。
体力もまだまだあるようなので、理由を尋ねますと、年齢的に70代後半に差し掛かり、息子から、強くもう止めるように言われたことがあるようですが、情熱が失せたと言います。轆轤を挽かないわけではないが、気の向いた仕事しかしたくないと言います。
それでも、現在庫があり暫くは当サイトで販売できることになりました。

昔は、御蚕様を飼う農家もたくさんあり、桑の木もふんだんに入手できましたが、桑の枝葉を切り取らない、桑を虐めない材は、伸び伸びと育ってしまい美しい年輪を刻みません。やはり昔のような美しい年輪の材は、もう手に入らないようです。
桑材で轆轤を挽く職人は、全国広しといえども殆どいないと聞きます。
一度、都内のデパートで物産展であり、北陸富山の轆轤挽きの職人さん達の間で、今市の鈴木さんのことが、話題になったと言います。そこでお会いして、話に花が咲いたと喜んでいました。
------------------------------
越中富山の砺波郡は、私の御先祖の出身地です。私の兄で、7代目と聞きますが、砺波郡仲村の細川六右衛門の三男、倉吉と砺波郡松原上野村、上野三次郎二女ハナが、同じ八田藤四郎出の八田与左衛門に養子縁組で入りました。
那須郡稲沢村三十三番地。
江戸時代の末期ごろです。
小砂焼の藤田製陶所も富山からの職人だったと言います。藤田眞一氏は、6代目と言いますが、史実によると初代、半平は越中・富山から来た焼き物職人で志鳥村(現那須烏山市)で作陶をしていたが、小砂村の庄屋、藤田家に招かれ、登り窯を築いた。当時の半平の名は斎藤栄三郎。後に藤田家と親子のちぎりを結び、名を改めて土地を譲り受け、窯を移したというと聞きます。
懐かしい越中富山の話で、脱線してしまいました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
商品で残されたものは、限定品です。
今時これだけの轆轤を挽ける方は、居られません。
骨董品と同じです。
鈴木民芸の桑商品はお勧めです。
桑急須
桑湯飲み
下野・会津・津軽のブログ」はショッピング>日本の民芸/「下野・会津・津軽 手仕事専科」のブログです。株式会社とぴい企画  080-5089-9227  topykikaku@ybb.ne.jp 下野・会津・津軽の四季風景 ■下野・会津・津軽の歴史街道 ■和美との生活・和美空間 ■伝統的食品のブログ