手仕事専科は、下野手仕事会の会員の方々のご協力から、スタートしました。
手仕事専科のポリシーに「和美との生活」を提唱しています。それは、下野手仕事会の顧問で、栃木県立博物館の学芸部長だった尾島先生の影響によります。尾島先生のお話は幾度となく拝聴しました。決まって、庶民の方々にたいして「清く貧しく美しく生きた人々」の言葉が付いてきました。知る人ぞ知る民俗学者です。天皇陛下を始め皇太子や皇族の方が来られ、伝統工芸品や民芸品の実演の際には決まって、知事と一緒に尾島先生の御進講となります。
私が、30代初めの時でしたから、手仕事会の職人さんたちは、既に50代、60代、会長さんに至っては、70代ですから、ホテルの企画担当の私は、雛っこ同然です。正面切って太刀打ちできる器量もありませんでしたが、尾島先生の一言ですべて交渉事が終わりました。私は、先生の仰せの通りに行動するだけでした。
その鈴木さんは、一昨年の9月に廃業しました。
体力もまだまだあるようなので、理由を尋ねますと、年齢的に70代後半に差し掛かり、息子から、強くもう止めるように言われたことがあるようですが、情熱が失せたと言います。轆轤を挽かないわけではないが、気の向いた仕事しかしたくないと言います。
それでも、現在庫があり暫くは当サイトで販売できることになりました。
昔は、御蚕様を飼う農家もたくさんあり、桑の木もふんだんに入手できましたが、桑の枝葉を切り取らない、桑を虐めない材は、伸び伸びと育ってしまい美しい年輪を刻みません。やはり昔のような美しい年輪の材は、もう手に入らないようです。
桑材で轆轤を挽く職人は、全国広しといえども殆どいないと聞きます。
一度、都内のデパートで物産展であり、北陸富山の轆轤挽きの職人さん達の間で、今市の鈴木さんのことが、話題になったと言います。そこでお会いして、話に花が咲いたと喜んでいました。
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越中富山の砺波郡は、私の御先祖の出身地です。私の兄で、7代目と聞きますが、砺波郡仲村の細川六右衛門の三男、倉吉と砺波郡松原上野村、上野三次郎二女ハナが、同じ八田藤四郎出の八田与左衛門に養子縁組で入りました。
那須郡稲沢村三十三番地。
江戸時代の末期ごろです。
小砂焼の藤田製陶所も富山からの職人だったと言います。藤田眞一氏は、6代目と言いますが、史実によると初代、半平は越中・富山から来た焼き物職人で志鳥村(現那須烏山市)で作陶をしていたが、小砂村の庄屋、藤田家に招かれ、登り窯を築いた。当時の半平の名は斎藤栄三郎。後に藤田家と親子のちぎりを結び、名を改めて土地を譲り受け、窯を移したというと聞きます。
懐かしい越中富山の話で、脱線してしまいました。
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商品で残されたものは、限定品です。
今時これだけの轆轤を挽ける方は、居られません。
骨董品と同じです。
鈴木民芸の桑商品はお勧めです。
桑急須 |
桑湯飲み |