2021年1月31日日曜日

「Reohas(リオハス)」.手仕事専科Vol002

 websiteの世界に参入して11年が間もなく過ぎようとしています。2010年4月8日が、(株)とぴい企画を起業した日です。そして、4月22日に手仕事専科をupしました。その頃に楽天の営業の方から、このような言葉を聞きました。「(株)とぴい企画さんは、良いですよね。本物を販売しているから。」と。そして、別の方からは、「websiteは商品を売るのではない、コンセプトを売る。(株)とぴい企画さんは、コンセプトがあるから良いですね。」と。もう一人インド人の友人からは、websiteを「私達は物を売るのではない、文化と伝統を売るのだ。歴史とストーリーを売るんだ。」と。

コンセプトについては、websiteを育てる中で学んできました。物を売るには、商品の見立て、即ち優れた商品であることは当然でしたが、価格以上にその機能と美しさ、歴史と伝統を求めました。その中で考え思い至ったことが、「和美との生活」です。生活の中で伝統工芸品に付随してきた価値です。詳しくは、こちらの「和美との生活」の紹介をご覧ください。

次いで、私の心に芽生えたものは、社会経済です。2020年を迎えて、空白の30年が言われています。日本の自民党政策が原因ですが、匠の国日本は、物づくりの時代は優位に立ちましたが、アメリカウォール街の金融資本家達の世界には、歯が立ちませんでした。中世から、そして近代、現代の中で、世界はユダヤ資本に陰で牛耳られ、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして、その後に続くアジアと中東の局地紛争は、冷戦下の彼らの利を得る手法でした。日本は、需要特需から利益を得ると同時に冷戦下では、経済的に戦費から苦しむアメリカを敵に回しました。1971年のニクソンショックであり、ブレトンウッズ協定からの離脱です。2020年のアメリカ大統領選で、恐ろしいことが成されました。ジョー・バイデンの民主党が、不正選挙で7,420万票もの支持を勝ち取ったトランプを破り、勝利しました。あの2008年のバラク・オバマでさえも6,949万票でした。巷では、FAGAと言われる民間企業と殆どのメディア(CNN、NT、WP・・)が、反トランプでした。背後には長年アメリカを牛耳ってきたディープ・ステートと言われる人々がいます。アメリカ民主党は、彼等の傘下であり悪魔の巣窟です。ジョー・バイデンの醜聞は、恐ろしい内容です。この人物がこれからの世界をリードするのかと思うと空恐ろしい。彼等は、ワンワールドです。国家の制約と国境は必要ありません。多国籍企業が随分と昔に語られましたが、今は当たり前。世界は、二極化が進んでいます。数パーセントの富める者が世界の富を独占しています。彼らは、アメリカの富の独占のためには、中東のアメリカに対峙する民族的な国家は、敵です。リビア、イラク、イラン、石油資源と希少価値の資源を有する国々が、アメリカに歯向かうことは許されません。公然と因縁をつけて潰しにかかります。そして、彼らは、共産党中国から利益を得ています。嘗て、F・D・ルーズベルトが、スターリンのソビエトを育てたように、民主党政権は、クリントン、ブッシュ(彼は共和党ですが、ネオコンが関わりました。)、オバマ、ヒラリーと悉く共産党中国を育てることで関わってきました。北朝鮮に対する「戦略的忍耐」の言葉がそうです。従来の民主党大統領が使ってきた言葉です。ジョー・バイデンも将に今使っています。香港も台湾も、尖閣諸島も南沙諸島と同様に侵略されるでしょう。

話が脱線しました。社会経済では、国内的には、内部需要の創出が解決策の一つです。世界中に貧しい国家が、負の連鎖から逃れられずにいます。日本の空白の30年もそうです。需要創出を怠ったことによります。身近な話ですが、私の犬との散歩コースに10丁歩程の美田がありました。しかし、昨年から、お米を作らなくなり、宅地として造成されています。農協の不動産部が介在し80坪の宅地が、20区画程出来るようです。この後も息子さんは、農地を切売してゆくと聞きます。全部で7,80区画になるでしょうか。宅地造成地区になるのでしょう。休耕地政策がとられ、食糧需給率が如何程かは、語らずとも分かるでしょう。これからの世界は、食料と水は戦略物資です。国政の貧困です。私の考えの基本になるのは、「幸せの経済学」です。グローバリズムに対峙する「ローカリズム」です。今は、ローカリズムは皆無です。「地産地消」や「グリーンツーリズム」の言葉は殆ど死にました。Reohas(リオハス)の言葉が、私の生み出したコンセプトです。「幸せの経済学」から生み出された概念です。Reohas(リオハス)をご覧ください。

Reohas(リオハス)
Regional economy of health and sustainability
(健康で地球の持続可能を志向する地域経済)

Reohas(リオハス)とは、Regional economy of health and sustainability(健康で地球の持続可能を志向する地域経済)の略です。


2021年1月30日土曜日

普段使いのいっちんの器.薄田窯Vol005

 薄田と書いて、すすきだと読める方は、少ないでしょうか。会津若松にも薄の一文字の名字があります。ススキ、芒、薄、薄木と何れも「すすき」です。お父様の薄田浩司さんは、三春の御出身で更にご先祖は、佐竹藩に仕えた武士と聞きます。 

手仕事専科の工房「薄田窯-薄田いと」昨年のGW明けに、薄田いとさんのいっちんの器を随分とお待たせして納品いたしました。過去のブログでご紹介しています。

薄田窯 薄田いとさん
薄田窯に薄田いとさんを訪ねました。Vol.001
薄田いと-薄田窯.Vol.002
薄田浩司氏の遺作作品-薄田窯.Vol.003
薄田浩司氏の登り窯塩釉焼成のこと。薄田窯Vol.004

今回も同じお客様でしたが、御注文の器も在庫があり、直ぐにお届けすることが出来ました。「普段使いに重宝な器」と仰られています。

益子焼よりも少し堅い土を使い、白の釉薬で焼き上げています。形のシンプルさに逸珍の点、線書きが、楽しい器ですが、それでいて安価です。ちょっとお洒落で、安価さは重宝な器になります。薄田いとさんの作品をご紹介いたします。ぜひ、あなたのお料理の盛付にお使いください。料理は、味と栄養と形と色を器を使い愛でるものです。器にはお料理を引き立てる役割、仕事があります。

・箸置き(5客セット)
 ¥1,500
 4cm×5cm×h0.5cm 
 ■商品コード O-0504114■

・四角皿(縁)
 ¥900
 11.5cm×11.5cm×h1.5cm  
 ■商品コード O-0504106■
 

・ケーキ皿(5寸丸皿)
¥1,200
φ15cm×h1cm
■商品コード O-0504107■

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2021年1月28日木曜日

仏師朝倉二美氏のこと.手仕事専科Vol002

先日は、黒羽に朝倉二美さんを訪ねました。7、8年ぶりの出会いですが、暮らしの館で待ち合わせ、近くの蜂須小学校跡地にあるhikari no Caféでお話を伺いました。初めて彼と出会ってから、随分と月日が経ちます。当時木・工房ヒロさんから、朝倉二美さんを紹介いただきました。直ぐ近くの戸田にあるという工房を訪ねしましたが、仕事以外には関心がない風で、作業場には奥さんも依頼主の御寺のご住職も入れない徹底ぶりでした。緊張感が維持できないからと話していました。通販を行っている私のサイトで販売することは、お世話になっている御寺様に申し訳ないということで、ご紹介だけなら良いとなりました。彼の彫る仏像を見た訳ではなく、どの様なお顔の仏像なのかも分からずにいました。ただ、彼のwebsiteには、仏像の全体像が画像でご紹介されており、その端正な品のある姿に感動したのを覚えています。少しでも彼の制作のお役に立てればということで、仏師朝倉二美を作りました。

この度彼とお会いする前に彼の収めた仏像を拝見したく御寺さんを御紹介いただきました。近在では、二つの御寺にお納めしていると言います。ともに真言宗智山派の御寺でした。真言宗は、空海の弘法大師が広めた仏教です。高野山の密教として覚えています。ひとつは、大田原市湯津上の霊牛山威徳院極楽寺です。室町時代より天神宮、富士権現も管理しており二社一寺の形態ですが、ご本尊は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)。朝倉仏師の大威徳明王、妙見菩薩等が安置されています。ともに大きな仏像でともに一木造りの仏像です。特に大威徳明王は、一木ですが、仏様の後ろの飾りも付け足したものではありません。牛は横広ですので、首のところだけは嵌め込んでいます。いずれにせよ、一木造りの素晴らしい仏像です。

妙見菩薩像
大威徳明王像
もうひとつは、大田原市の竜泉寺に4体が安置されています。竜泉寺は、城主大田原家の累代の祈願所として庇護され寺運が隆盛した寺院です。寺宝である「紙本著色大田原資清と一族の肖像画」は、江戸時代中期に絵師卯親子破傘翁(小川破傘)によって描かれたもので大田原市指定文化財に指定されています。朝倉仏師の仏像画像はご紹介できませんが、素敵なものでした。

彼の手法は、一木造りです。頭部から彫始めて行きます。
木彫仏像は、大きく一木造りと寄せ木造りとの2種類があると聞きます。寄木造りであれば、分業が出来るのですが、一木造りはひとりで彫あげることになります。したがって、完成までの時間が大きく異なります。
鎌倉時代の有名な仏像がありますが、工房の職人集団が作りました。
東大寺の主要伽藍焼失後に僅か2カ月で仏像を建立しています。
寄木造りだからでしょう。
(ここに有名な東大寺の仏像建立の運慶の著述があります。)
治承4年(1180年)の南都焼討で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている。建久5年(1194年)から翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる。建久7年(1196年)には康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音、虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約14メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している(『鈔本東大寺要録』『東大寺続要録』)。以上の諸像はその後建物とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約8.5メートルに及ぶ巨像2躯は、1988年から1993年にかけて解体修理が実施された。その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた。4人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている。この功績により、建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった。

彼の仏像は、1年から2年の期間で制作依頼を受けるといいますが、なかなかその期間では終わらないと言います。御寺様と取決めた制作金額は変わらないので期間が長くなると商売にならないと言います。制作集団に属さなければ、ひとり作業となります。寄木造りでも良いと思うのですが。一木造り制作に拘る彼の性格がそうさせるのかと思います。彼の話では、手の表情が一番難しいと言います。そういえば、ロダンの彫刻に手だけのものがありましたね。油絵の画家から手の表情が難しいというコメントはよく聞きます。手が習作の画題にもなるので彼の話も納得がゆきます。仏師という道は、運慶ではないですが、仏に使える身です。禊をして一刀一刀彫る作業です。巷の欲望からは一番遠くにいなければならないのかと思います。一木に仏の姿を造ることが喜びであり、真、美という芸術と善という仏の心とが叶う生業に思います。

私の長年の課題に「美」の普遍性があります。私は、ある画家が描く女性像が、好きではありません。その表情が心清く爽やかに見えないのです。ある時、知らない画家が描いた女性像が、穏やかでホッとする表情でいつまでも見ていたい飾って置きたいものでした。技術的な優劣ではありません。単なる私の好みなのでしょうか。
益子焼を長年扱っている店主が口癖のように言います。お客様(の好み)はいろいろだからね。好みは千差万別ということです。商品の優劣だけではないということです。
しかし、世界には誰しもが認める傑作の絵があります。
100%近い方が認めるという。数億円の高値でオークションに掛かります。
この芸術の普遍性について、朝倉二美さんに尋ねますと、益子焼の店主と同じことを答えました。人それぞれだということです。御寺様の好みで仏像を求められるということです。技術的な良し悪しはあるのでしょうが、その仏像に宿る品格や美しさは、御寺様の好みだということです。彼は、御注文に対して作る際には、御寺様の好みを徹底して伺うと言います。御寺様の好みを徹底して伺います。どこそこの御寺の仏像だというと訪ねて行き、その形状と特徴を認識しその好みで彫ることに努めているようです。

私の通販という仕事は、商品の良さ即(真と美)を伝え、お客様に喜んでいただく(善)、そして、作り手の職人さんに経済的な利を与えること(善)になります。
朝倉二美という仏師の仏様を心に求める方々へのご紹介になります。

2021年1月27日水曜日

老舗栗久Vol001

大館は、懐かしい地名です。
平成7年3月28日に初めて、津軽に来ました。
ホテルのプロパーとして、それからの7年を過ごしました。中津軽郡相馬村の第3セクターですが、当時は、日の出の勢いの相馬村のテーマパークでした。星と森のロマントピア、国の過疎地支援事業関係の支援金を使い数十億円の投資をしていました。
ホテルマンとしては、力量を発揮できる最高の幸せな時間でした。
大館は、よくマイクロバスを運転してお客様の御送迎で伺いました。比内地鶏や秋田犬、そして、大館曲げわっぱとして有名ですが、その後大館能代空港ができました。よく、ホテルの市場調査として、大館から、能代、そして、青森県内の深浦や鯵ヶ沢を廻り五所川原経由で戻りました。
その大館曲げわっぱには、老舗栗久があります。当主の栗森俊二氏が現代の名工として、伝統工芸の技能を継承されています。手仕事専科をスタートさせて、直ぐの頃に国際展示会場の展示会でお会いし、その後にお取引が出来るようになりました。
素晴らしい工房です。杉の柾目を使い熱を加えて加工します。
職人技です。
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(歴史)
大館曲げわっぱは、きこりが杉柾で曲物の器を作ったことに始まったとされています。
藩政時代に大館城主佐竹西家が領内の豊富な秋田杉に着目し、武士の内職として推奨しました。農民には年貢米の供出代替として、山から城下まで原木を運搬させたといいます。
製品は酒田・新潟・関東などへ運ばれました。江戸時代末期から近代にかけて職人たちが技法を受け継いできましたが、プラスチックの出廻り等により他産業への転向が相次ぎました。
(特徴)
現在の本物志向の風潮に相まって、大館の曲げわっぱは、多くの人に愛されています。天然秋田杉の柾目と香りが冴え、木目まっすぐで弾力に富んでいます。軽さと、明るく優美な木目が生かされた製品には、シンプルな味わいと気品があります。
(製法)
天然秋田杉を手割り、または製材により薄く剥いで、熱湯につけます。板が柔らかくなったところで取り上げ、台上でコロ(道具)に巻き込むようにして曲げ、重ね合わせ部を仮止めして自然乾燥させます。乾燥後、接ぎ手部を接着剤で接着した後、とじ穴を開け、この穴を桜皮で縫いとめます。蓋板または底板を入れ込み、接着して仕上げます。
(出会い)
大館曲げわっぱの老舗栗久の栗盛俊二氏とは、ビッグサイトのギフトショーでお会いしました。来場者の若い女性に向かい流暢にそして、情熱的に話す語り口に惚れ惚れと見とれていました。
それは、おひつの曲げわっぱが、いかに美味しいご飯になるかというものでした。
自分のこどもの頃は、炊飯器も保温ジャーもなかった時代です。
薪で炊いたお釜のご飯をおひつに盛っていました。
その風味とほかほかの香は、懐かしく思い出されます。
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これらの大館曲げわっぱは、人気者です。
特に弁当箱は、数カ月をお待たせしてしまいます。
木のお弁当箱が何故良いか?
と申しますと余分な水分を吸収して食べ物が傷まないということに有ります。そして何よりお料理の味が変わらずしっかりして美味しいということです。
それから木は伝熱性が低いので冷めにくく、さめてもカチカチ固くならずホクホクした美味しいままです。
手仕事であることから、大量生産が出来ません。
一日に造られる数量が限られています。
手仕事品を愛することは、拘りは、直ぐに手に入ると考えることが、間違いです。
ご注文後に造ることが、一番のエコです。
最近は、これらのセイロや徳利などの御注文を頂戴していますが、弁当箱は、宝石箱のようです。
あなたの拘りの逸品に加えてみません。
セイロ(小)
セイロ 5合
弁当(小判型小)

プラスチックのお弁当と曲げわっぱの
お弁当では、お米のしっとり感、美味しさが
異なります。それは、杉材の柾目の吸湿性
によります。水分を吸い込みそして、長時間
お米の湿度を保つことから出来るのです。
その風味とお米の香りをお楽しみください。
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鈴木民芸のこと.手仕事専科Vol001

手仕事専科は、下野手仕事会の会員の方々のご協力から、スタートしました。
手仕事専科のポリシーに「和美との生活」を提唱しています。それは、下野手仕事会の顧問で、栃木県立博物館の学芸部長だった尾島先生の影響によります。尾島先生のお話は幾度となく拝聴しました。決まって、庶民の方々にたいして「清く貧しく美しく生きた人々」の言葉が付いてきました。知る人ぞ知る民俗学者です。天皇陛下を始め皇太子や皇族の方が来られ、伝統工芸品や民芸品の実演の際には決まって、知事と一緒に尾島先生の御進講となります。

私が、30代初めの時でしたから、手仕事会の職人さんたちは、既に50代、60代、会長さんに至っては、70代ですから、ホテルの企画担当の私は、雛っこ同然です。正面切って太刀打ちできる器量もありませんでしたが、尾島先生の一言ですべて交渉事が終わりました。私は、先生の仰せの通りに行動するだけでした。
当時の若衆の職人さん達に後に会長となられた三代目大畑耕雲日下田藍染工房の日下田正さん、小砂焼藤田製陶所の藤田眞一さんが居られました。今市の日光轆轤挽きの鈴木正雪さんも同じ若衆でした。
その鈴木さんは、一昨年の9月に廃業しました。
体力もまだまだあるようなので、理由を尋ねますと、年齢的に70代後半に差し掛かり、息子から、強くもう止めるように言われたことがあるようですが、情熱が失せたと言います。轆轤を挽かないわけではないが、気の向いた仕事しかしたくないと言います。
それでも、現在庫があり暫くは当サイトで販売できることになりました。

昔は、御蚕様を飼う農家もたくさんあり、桑の木もふんだんに入手できましたが、桑の枝葉を切り取らない、桑を虐めない材は、伸び伸びと育ってしまい美しい年輪を刻みません。やはり昔のような美しい年輪の材は、もう手に入らないようです。
桑材で轆轤を挽く職人は、全国広しといえども殆どいないと聞きます。
一度、都内のデパートで物産展であり、北陸富山の轆轤挽きの職人さん達の間で、今市の鈴木さんのことが、話題になったと言います。そこでお会いして、話に花が咲いたと喜んでいました。
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越中富山の砺波郡は、私の御先祖の出身地です。私の兄で、7代目と聞きますが、砺波郡仲村の細川六右衛門の三男、倉吉と砺波郡松原上野村、上野三次郎二女ハナが、同じ八田藤四郎出の八田与左衛門に養子縁組で入りました。
那須郡稲沢村三十三番地。
江戸時代の末期ごろです。
小砂焼の藤田製陶所も富山からの職人だったと言います。藤田眞一氏は、6代目と言いますが、史実によると初代、半平は越中・富山から来た焼き物職人で志鳥村(現那須烏山市)で作陶をしていたが、小砂村の庄屋、藤田家に招かれ、登り窯を築いた。当時の半平の名は斎藤栄三郎。後に藤田家と親子のちぎりを結び、名を改めて土地を譲り受け、窯を移したというと聞きます。
懐かしい越中富山の話で、脱線してしまいました。
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商品で残されたものは、限定品です。
今時これだけの轆轤を挽ける方は、居られません。
骨董品と同じです。
鈴木民芸の桑商品はお勧めです。
桑急須
桑湯飲み
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2021年1月15日金曜日

縄文人の土偶が人気なわけ.夢野工房Vol.004

年が明けて、Netからの御注文が増えています。コロナ禍でも売上が伸びているのは、Net業界なのかと思います。手仕事専科で扱う伝統食品の味噌醤油などの食料品、生活必需品は理解できますが、土偶のような郷土玩具的なものが、人気には訳があるようです。殆どが女性陣ですが、ひとつ、可愛らしい人形であること。そして、縄文人の生活に憧れがあるのかと思います。

嘗て現在のつがる市(旧木造町)で出土した亀ヶ岡遮光器土偶は、国指定重要文化財ですが、その持つ芸術的な点から考察するに充分国宝に思える土偶です。夢野工房の柴谷浩二さんは、縄文の語り部、カリスマの縄文土偶師(作家)と言われています。一時は、忙しさから御注文には答えていませんでしたが、現在は、1カ月~2カ月のお時間を頂戴して、制作を始めました。以前よりも種類は少なくなりましたが、徐々に作家としての技能技術も卓越したものとなり、縄文人の気持ちを数段与して制作しています。幾つかの土偶をご紹介します。

夢野工房 柴谷浩二 http://tesigotosenka.com/doguu.html

板柳出土土偶(実寸)
亀ヶ岡遮光器土偶(中型・全身)
打麻編巾着土偶

亀ヶ岡遮光器土偶
土偶3点セット
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逸品の山ぶどう手籠.宮本工芸Vol001

手仕事専科には、(有)宮本工芸があります。
2011年の秋にNHKBS美の壺で網代編手提巻手(2分幅)が、紹介されました。一晩でひとつ十数万円の手篭が、いくつも御注文となりました。はじめ、メールを見て目を疑いましたが、宮本工芸に問い合わせて、理由が分かりました。美の壺で30分にわたり、工房と葛西あきらさんの山ぶどう皮網代編手提巻手(2分幅)をご紹介したことによります。桐島かれんさんが、長年20年近く使っている照りのあるバッグも紹介されたと言います。
当初は、出来上がりは数か月~半年だったものが、その後2、3回の再放送を経て一気に6年待ちとなりました。幻の網代網手提巻手(2部幅)の誕生です。
6年も待つなんてどう思いますか。
その良さを知らない方には、分からないでしょうね。
現在は、2014年の御注文者の方々にお届けしています。それでも、あまりに長い出来上がりにそれまで待てないと途中でキャンセルされる方や出来上がりのご連絡をしても、連絡が取れない方々も増えました。
手仕事専科で御注文を頂戴した方の注文残も残すところ10件ほどになりました。宮本工芸の店長に尋ねますと、これからの御注文は、1年ほどで出来上がると言います。過去のNHKBS美の壺の再放送はあるか伺いますと先頃に撮影取材に来られて2/2(火)NHKBSプレミアムイッピンで放送されると言います。
一晩でいくつもの御注文となるような嘗てのような反響はあるのでしょうか。
9年前の放送では、山ぶどう皮手篭の風合い、侘び寂に通じる「用の美」を感じられる方々が大勢居られたものと思います。それが、10年近くが過ぎ、その後の若い方々に共感を生み出すでしょうか。
三上徳仁氏のつくる
網代編手提巻手(2分幅)
             
網代網手提巻手(2部幅)は、当時放送でご紹介されたのが葛西あきらさんでしたので、彼を御指名の御注文が多かったのですが、ご高齢から徐々に対応できなくなりました。残念ながら、ご指名のお客様には数年前から諦めて頂きました。現在の作り手の三上徳仁氏は、当時も葛西あきらさんに劣らない素晴らしい編手(職人)でしたが、そのような中で作り続けて来ました。山ぶどう皮の幅と厚みを刃の付いた道具を使い扱(しご)き編蔓を準備します。形状も美しくそれでいて編みの強度も素晴らしいものです。
あけび蔓を一本一本扱き
節を取り除き太さと長さを揃えます。
山ぶどう皮を扱き幅を揃えています。
当時、都内の各デパートでは、地方の物産展を催事しており、蔓細工として、宮本工芸も参加していました。そのデパートでは、山形県の蔓細工をご紹介していましたが、沢山の山ぶどう皮手篭やあけび蔓手篭が並んでいました。年配の実演者(職人の方)が笑顔で丁寧に対応してくれましたが、山ぶどう皮の幅と厚みを揃えていないので、編みが雑になります。宮本工芸の物と比較すると大きな違いがありました。
作り方の違いです。
それが、それぞれの産地で伝統となり、より優れたものとして、伝承されるのでしょう。
青森県の山ぶどう皮手篭は、遥か縄文時代に遡ります。有名な三内丸山縄文遺跡では、漆器と網代編手篭が見つかっています。1万年前に遡る縄文人がこの青森湾の入り江に生活し、同じ編み篭を作り生活の中で使用していたなんて信じられますか。
三上徳仁氏
網代編手提巻手は、型があり、
その形状を整えます。


6年待ちとなった頃に宮本工芸さんに訊ねましたが、6年待ちで良いと言います。職人も材料も増やしません。ビジネス理論では、職人を増やし、材料を広範に集め対応すると1年待ち程度で出来るかもしれません。そして、営業的には売上も増大し、成功かも知れません。
しかし、職人も増やさず、材料も中国などの海外や他県に求めることはしませんでした。
今も作り手は、当時のままの方々ですし岩木山や八甲田山で採れる山ぶどう皮、あけび蔓に拘り使用しています。
手仕事品は、大量生産の物ではありません。
そして、究極の良い物を創意工夫して作ることです。
宮本工芸のブランドです。
ブランドは、本来そのようなものです。
嘗て、昭和初期に西欧で開催された万博で、会津の本郷焼がグランプリに輝いたことがありました。有名な鰊鉢です。(1958年(昭和33年)、宗像窯六代豊意(故人)の代には、ベルギーのブリュッセル万国博覧会で鰊鉢がグランプリ受賞)その後は、会津焼でない焼物も挙って海外に「会津焼」と名を打ち輸出しました。粗製濫造、そして、瞬く間に売れなくなりました。 
乾燥された山ぶどう皮が、
棚に積んであります。

あけび蔓です。
会津の焼き物の受難期となりました。
宮本工芸の職人さんたちは、拘りを持つ方々です。あけび蔓も山ぶどう皮も扱いて幅と厚みを揃えて、編上げます。よくお客様のご要望で形や作り方を伺うのですが、それが理に適わないときは、作りません。
「お客様は神様です。」の風潮があり、それに答えるのがサービスと言った時代がありましたが、彼等には通じません。
「そんな出鱈目な物は作らない!」と受け付けません。
「嫌なら他に頼め!」
今回の網代編手提巻手(2分幅)ですが、最近お届けできた方々は、通の方々ですが、届いたときの溜息が聞こえるようでした。
今でも幻の網代編手提巻手(2分幅)は、健在です。
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