2021年3月7日日曜日

七代目高谷智二氏のこと.高谷下川原焼土人形Vol001

 手仕事専科下川原焼土人形とのお付き合いは、丁度10年前になります。伝統工芸品の通販のスタートから、1年近く経った頃です。忘れもしない2011.03.11の日です。当日は、3時頃に下川原焼土人形の阿保正志さんと商品画像撮影の約束をしていました。それまでの時間をデパート中三の一階のcafeで昔お世話になった方とお話をしていました。2時46分に突然大きなゆったりとした揺れが、ビルを襲いました。本当にゆったりと揺れて、外を見ると空が暗くなり人々が足早に土手町の道路を横切っています。近くの信号機が止まり車が、そろそろと譲り合いながら交差点を渡っています。私達も話どころではなく、そそくさと分かれました。

阿保さんにお電話をしましたが、これから写真撮りに伺うと伝えましたが、直ぐに切れてしまいその後は繋がりませんでした。直ぐに別の電話が入りました。東京の娘からの心配の電話でした。既に那須の家には電話をしたようで、全員が無事だとのことが、分かりました。その後は、携帯は殆どが繋がらなくなりました。中三から、阿保さんの工房までは約30分程ですが、途中は交差点を用心しながらわたり、彼の工房に到着しました。停電しており、照明は使えませんが、夕方までの2時間程でかなりの点数の商品を撮ることになります。その時は大きいとは思いましたが、かつて経験したことのない地震です。これ程までに甚大な被蓋を齎す大きな地震とは思いませんでした。夕方の灯りが暗くなりもうこれ以上は撮れないなと思う頃に全て撮り終えることが出来ました。私が画像を撮りながら、サイズと価格を阿保さんに記入してもらったように思います。下川原焼土人形の画像は、震災の日に産まれた画像です。

ホテルに戻るといろいろな情報が入りました。東北高速道路は、通行停止で動かないこと、停電からガソリンスタンドは給油が出来ないこと、TV等も見ることも出来ませんでした。翌日は、一日中動けずに情報だけの入手に努めて、家や娘との連絡も取れずに一日悶々として過ごしました。それでも近くのガソリンスタンドが給油している話を聞いて、翌朝7時前に出て、ガソリン満タンにして、戻ることにしました。7号線から、碇ケ関を通り秋田に入りそして、13号線を通り、山形県内を抜けて、福島県会津若松121号線を通り、家に戻るルートです。そのルートは、かつてよく通った道です。東北高速道路は幾度も使いましたが、裏街道は旧道にもなり、芭蕉の立石寺や上杉鷹山等の観光史跡が残っています。勝手知ったる道路ですが、ガソリンは満タンで600kmは走れます。途中給油は無くても戻れる計算です。もう、あれから10年が過ぎました。

うさぎ土鈴
丈8cm×横9cm×巾5cm
 ■商品コード T-17007■ 

一昨日に下川原焼土人形のうさぎの干支土鈴「卯」のご注文が入りました。ある企画会社ですが、下川原焼土人形の干支を絵に描きとり、イメージ用に購入して使いたいというのです。阿保氏に聞くと今はご注文が殆ど途絶えており、生業としては成り立たないようです。コロナ禍から、弘前の桜やねぷたも全てが中止となっています。今年もです。伝統工芸品や民芸品は実用的な物ではありませんので、観光によって、販売されています。コロナ禍から、中小企業と飲食店などの接客に関係する業態は、軒並み大きなダメージを受けました。ウィルスから死亡するよりも経済的な「致死」です。少人数の家族経営の商売が立ちゆきません。公務員などの正規社員は、このような時でも給与が保証されます。しかし、社会保険もないような人々に収入の道は経たれてしまいます。

下川原焼土人形は、高谷金蔵が始めた郷土玩具です。縁起は、「初代高谷金蔵は弘前の津軽藩士の家に次男として生まれ、壮年にして九州筑前に渡り製陶の技を学び文化の初年 南郡大沢村(現.弘前市大沢)に本窯を築き独力で製陶に従事、専ら飯碗、徳利、水滴等日曜雑器を造っていたが、 当時気候の関係上雪中は今のような暖房装置がないため作業不可能であった。その為冬季間の仕事として鳩笛や 土製の人形類、即ち3月節句人形、5月武者人形、唐子其他土地風俗を取り入れた笛付人形、アンコと称する小物、 玩具等製作を続けてきた。」とあります。現在の高谷智二氏は、七代目です。もう既に3年前になりますが、「朝鮮通信使の玩具」を求めている方が尼崎市に居られ、お電話を頂戴しました。在日朝鮮人の方でしたが、その熱意に好感を持ちました。私はその方から初めて江戸時代の朝鮮とのやり取りを知った次第です。いろいろと調べて、その後、広島県の呉市に(公財)蘭島文化振興財団があり、そこにその人形が残っていることが分かりました。博物館に電話し詳細を伺い、その後に高谷智二氏にたどり着き、その朝鮮通信使の玩具が、12体あることとその時代の型が残っており、今もそれらを資料として発掘し造っているなど。数か月先でしたが、彼の造ったいくつもの朝鮮通信使の玩具をお届けしました。七代目高谷智二氏の下川原焼土人形を新しい頁でご紹介することになりました。

左が太鼓持ち。右がラッパ吹きです。
下川原焼土人形。
12体の玩具人形
公財)蘭島文化振興財団所蔵

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から秀吉に向けても派遣された。しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって日朝間が国交断絶となったために中断されて、江戸時代に再開された。

広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者による学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。

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