2014年3月5日水曜日

益子の埴輪(はにわ)

わたしの手仕事専科のページには、埴輪(はにわ)があります。
そして、その埴輪を作られる大塚明さんとは、下野手仕事会(しもつけてしごとかい)の時からのお付き合いです。わたしよりも2年先輩ですが、実直なそして、飾らない方です。
が、最近かれの趣味を知りました。
ソフトボールの審判免許をお持ちです。奥様に言わせると毎週日曜日は、子どもたちのソフトボールの試合の審判で明け暮れていたといいます。
埴輪づくり一途のイメージがあったので、思わぬイメージチェンジになりました。
大塚はにわ店の埴輪製作は、本物を忠実に再現することである。古墳時代の工人が行ったであろう工程をたどり、粘土ひもをつくり手捻りで積み重ね、さらに目・鼻・口・耳など詳細部分を形作り最後にへらで調整する。その後、ゆっくりと自然乾燥させた上で窯に入れ素焼きにする。



そのように出土した埴輪を作られるのですが、実に美的な才能を必要とする仕事に思われます。
実際は、90cm丈の埴輪を10cm程度のモノに作るには、そのまま縮小したのでは、手作業としては、難しく、そして、実物の持つイメージを伝える必要もあります。
それが、かれの職人たる所以です。
先代の大塚一郎氏は、濱田庄司の薫陶を受けて、民藝運動に関わりました。
そして、当時の益子で埴輪づくりに入りました。生活雑器をつくる益子で、埴輪をつくることには、勇気のいることだったと思われます。
私から大塚はにわ店の埴輪を見ると、一郎氏と明さんの埴輪は、見ただけで違いが分かります。
一郎氏のものは、丸みを帯びて、優しさを感じさせるものです。その型を使って、いまでも人気のものが作られています。
明さんのものは、シャープさがあります。感性が個性となって引き継がれています。


埴輪づくりの工房は、全国でも少なく、全国からご注文がまいります。
嬉しい限りですが、思い出にのこる仕事が、いくつかありました。
ひとつは、手仕事専科のサイトができて、すぐの時です。博物館から、約200体になるミニチュア埴輪のご注文がありました。博物館の売店での販売のものです。
彼もわたしも勉強でした。ひとつひとつ検品が、必要でした。今までの民芸品づくりの感覚では、通用しません。
次は、挂甲武人(手捻り) の埴輪2体です。太宰府のテーマパークからのご注文でした。
すっかりと木型の梱包をして、納品できました。
手捻りの実寸埴輪は、素焼きの為にもろく、一般的な運送に耐えません。かつて、那須ビューホテルの売店でダンボールで馬を送ったことがありました。
途中、破損してしまいました。
そして、今回のです。
いずれも思い出の埴輪であり、仕事でした。


写真で、大塚はにわ店をご紹介いたします。
----------埴輪(ウィキペディア)----------
埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。基本的に中空である。造り方は粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えた。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料を塗布した。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方では、形象埴輪にいろいろな彩色が施されている。
埴輪は、古墳の憤丘や造り出しなどに立て並べられた。
埴輪は、大きく円筒埴輪と形象埴輪の2種類に区分される。さらに、形象埴輪を大きく分けると家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の四種がある。
形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能である。


埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓であると考えられている弥生墳丘墓(例えば、楯築墳丘墓)から出土する特殊器台・特殊壺(特殊器台型土器・特殊壺型土器とも呼称される)であるといわれている。[2]
3世紀中葉〜後葉になると、前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している[3]。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。 最古の埴輪である都月形円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。しかし、ただ一例、兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。
なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺が採用されていることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。吉備勢力の東遷説もある。
日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とする。しかし、考古学的に上記のような変遷過程が明らかとなっており、この説話は否定されている。


古墳時代前期初頭(3世紀中葉〜後葉)には、円筒形または壺形、少し遅れて器台の上の壺を乗せた形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。前方後円墳の広がりとともに全国に広がった。
前期前葉(4世紀前葉)には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多い。その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形・蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付け鰭付き円筒埴輪である。
さらに、古墳時代中期中葉(5世紀中ごろ)からは、巫女などの人物埴輪やなどの動物埴輪が登場した。またこの頃から、埴輪の配列の仕方に変化が現れた。それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになった。あるいは、方形列を省略することも行われている。さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家型埴輪の屋根部分が不釣り合いに大型化したりするようになる。
畿内では古墳時代後期(6世紀中ごろ)、次第に埴輪は生産されなくなっていく。しかし、関東地方においては、なおも埴輪の生産が続けられた。なかでも、埼玉県鴻巣市生出塚遺跡は当該期の東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られる。
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