2012年6月17日日曜日

石仏の櫛田豊氏を訪ねました。

毎週、土日は、道の駅に芦野石の石仏を彫る”櫛田豊”さんが、来られているということで、訪ねました。いつも柔和なお顔で観光のお客さま方に接しておられて、道の駅工芸館の工房で、石仏を彫られていました。 殺生石の千体地蔵を彫られていることや栃木県の伝統工芸士の認定を受けられている方で、直接は存じ上げてはいないのですが、初めてご挨拶を行いました。芦野は、私の生まれた伊王野とは、隣村でもあり、私の家のことをよくご存知で、父のことや家業のことをお話しいただきました。私の家は、昔は、鯉や鰻の養殖と養豚業を行っていたので、近在では、名前を言えば、どなたでも知っているような家でした。

 ちょうど、不動窯の鈴木鳳奉さんが、隣で陶芸体験で来られていて、そちらでもお話となりました。鈴木さんは、仏師です。木彫の仏様を彫る方で、長年京都で修業を積まれて、今は、造形芸術と言う範疇で、陶芸も木彫もなんでも行っておられるのですが、その見識は、すばらしいものです。いつもいろいろとお尋ねをして勉強させていただいております。

不動窯の鈴木鳳奉さん。
いつも淡々とお話を頂戴しています。
有難うございます。
櫛田豊さんの石仏について、お話を伺いました。ひじょうに深い認識をされていて、私自信の確信にも繋がるものでした。
 昔から、坊さんの木彫家では円空上人や木喰上人などが知られていますが、芸術的な評価よりも人生の言うに言われない悲しみや怒りや心の表現として、仏を彫られているので、芸術的技術や美術工芸としての仏とは、異なるということでした。”魂を彫る”という表現になるのでしょうか。
人生の無常を彫ることによって表現しているので、その形や美的な評価は、当たらないということでした。櫛田さんの作品も決して、工芸的な教育による作品ではなく、心の叫びが千体地蔵や毎日石仏を彫るということで、表現されているのでしょう。柔和なお顔から心の中は、計りしれませんが、千体地蔵は、そのようなものと言えるでしょうか。

 私は、最近思いもかけない悲しみを味わい、櫛田さんの石仏を見て、自分も掘って見たいと思うようになりました。けれども、どうしても櫛田さんのようなデフォルメは、私の感覚では、難しいように感じていました。”心の叫び”を石仏にたくすことで、その悲しみを昇華できればと思ったのですが、悲しみがよみがえってしまい、どうしても彫ることが出来ないと感じていました。そんなことから、鈴木さんに尋ねたのですが、私には、何年もの時がかかるようです。

櫛田さんを写真に納めてまいりましたので、ご紹介いたします。
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道の駅の構造的なモニュメントとして、17人の彫刻家による
作品が、格調高くおかれています。
この牛は、櫛田豊さんの作品です。
手を休めて、優しくお話をしてくれました。
櫛田豊さんです。
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