下野・会津・津軽 手仕事専科では、4つの陶磁器の産地があります。益子焼、小砂焼、会津本郷焼そして、津軽金山焼です。この東北には他にも沢山の優れた産地や工房があるのですが、それぞれに特徴があり、また、縁のある焼き物を選ばせて頂きました。
前の稿で、窯の美里いわたてをご紹介しましたが、直ぐ隣にある「会津本郷焼資料展示室」をご紹介いたします。会津本郷焼のこの地は、2度の大火に見舞われその都度復活してきました。また、その歴史は、近代の歴史そのものでもあって、非常に感慨深く拝見して参りました。それぞれの産業の歴史には、技術革新ともいえる産業改革があって、躍進して行く時期もあり、また、それが隆盛を極めて粗製乱造になったり、他の商品に凌駕されて、沈滞して行く時期もあります。
手仕事専科 http://tesigotosenka.com
樹ノ音工房 http://tesigotosenka.com/kinootokoubou.html
閑山窯 http://tesigotosenka.com/kanzan.html
鳳山窯 http://tesigotosenka.com/houzangama.html
前の稿で、窯の美里いわたてをご紹介しましたが、直ぐ隣にある「会津本郷焼資料展示室」をご紹介いたします。会津本郷焼のこの地は、2度の大火に見舞われその都度復活してきました。また、その歴史は、近代の歴史そのものでもあって、非常に感慨深く拝見して参りました。それぞれの産業の歴史には、技術革新ともいえる産業改革があって、躍進して行く時期もあり、また、それが隆盛を極めて粗製乱造になったり、他の商品に凌駕されて、沈滞して行く時期もあります。
手仕事専科 http://tesigotosenka.com
樹ノ音工房 http://tesigotosenka.com/kinootokoubou.html
閑山窯 http://tesigotosenka.com/kanzan.html
鳳山窯 http://tesigotosenka.com/houzangama.html
当時の荷造りは、藁で編んだ縄を使っていた。 現代のような梱包技術は、まだなくて、大八車で 運んだろうと想像できます。 |
有名な「ニシン鉢」です。この大きさで 約100匹(10匹×10段)のニシンが、 漬けられました。 第1会ブリュッセル万国博覧会でしょうか、 出品した宗像窯の「にしん鉢」がグランプリを獲得しています。 |
【本郷焼の工程】が分り易く描かれています。
本郷焼の発展は、第一に良質な陶石と粘土の発見 にありました。本郷山、大久保山、陶石の原料です。 大久保山は、一山採掘でなくなりました。 また、掘った陶石や粘土は、背負い馬に積んで 運びました。 |
陶石は、水車で粉砕しました。大川から水を引き入れ、 当時は、沢山の水車が並んでおりました。 砕いた陶石や粘土は、水をまぜてかき混ぜ、 沈殿させられ袋に入れられ舟で絞り、精製しました。 |
土踏み、土練りは、重労働で汗まみれ裸でやっていました。 土練りは、体重をかけます。男力のみせどころ。 本郷の形造りは、手回しろくろによって造られました。 陶工の窓は、低い窓で、今も見られます。 |
手回しろくろを回しながら道具を使って仕上げます。 急須や土瓶のへそ抜き、茶こしのところをつくる作業。 道具で細かい穴をあけます。 急須口付け。 出来上がったものを野外や軒下に並べて乾燥 させます。 乾燥したものに絵描きさんが絵付け。 着色をします。 |
上釉掛け これで出来上がり。あとは、焼くばかり。登り窯へ運ぶ。 盛時には、寄り合い窯をいれて、その数40基の窯 がありました。 豪快、白鳳山麓に並ぶ本郷登り窯。 |
会津本郷瀬戸市 会津の人々は、その年使うものをまとめて買うんです。 本郷の市を楽しんでから、会津高野山へ回って 新仏をおまいり。 昭和61年 画工 新謹画 |
大正時代の碍子製造(電線の繋ぎに使われる)の様子 |
大正時代の登り窯の風景 「白鳳山にのぼる左手のあたり」とおあります。 当時40基もの窯があったといいます。 |
大正時代の会津本郷の街並み。 今のこの窯の美里いわたてのあたりでしょうか。 |
銅版転写用紙 |
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